つながりあう。

 9条の会の澤地久枝さんが、土曜日に苫小牧にいらして、講演会をしたそうです。たくさんの人で会場が埋め尽くされ、80歳を過ぎても滑らかな滑舌と素晴らしい語り、帰ってきた知人は弾んだ声で「よかったよ〜!!!!」と大絶賛。先日は、脱原発大江健三郎坂本龍一、かあ。著名人の人間らしい訴えはやっぱ大きいよな〜。 

 わたしは昨日、奥地圭子さんの講演を聴いたり、不登校、登校拒否の当事者の方達、お母さんたちと話していました。「ふつう」で肩肘はらない集まりに、わたしの緊張も溶けて、落ち着いていられました。人間らしい学びや文化にふれていたい、のびのびと自分でいたい、あたりまえの主張だと思いました。学校はこたえられなくなったのかな。地域や自然とつながれなくて、生活する、なんてあたりまえじゃなくなったのかな。
 胸のまん中に話しかけられた感じがして、身体の緊張が解けていきました。帰りはそのまま身体に力が入らなくなって、転びそうになりながら歩き、遅すぎる運転をして、いつもの居酒屋に着きました。おにぎりと煮魚をやっと食べて(しかも、注文にもかなり時間がかかった。頭が寝ている感じになって、選べなかったの。肘をついてないと身体が支えきれなかったし。)ぐったりしたまま帰宅し、すぐ横になりました。 余計な力をはらりと会場に落として、だらんと帰ってきたのでした。


 弱音、泣き言、みっともない失敗。世の中に対応できない。おこられてばっかり。ああ、そのままでいいわ。それだってわたし。そこが人間らしいじゃないのよ。ありのままのわたしで、今を生きていけばいいんだなって。
 さみしいときはさみしいと言おう。いいこと発見したら見つけた〜って言おう。嫌なことは嫌だって言おう。相手が傷ついたらごめんって言おう。許してあげないって言われたら、ごめんってもう一度言って少し遠くですごそう。あんた悪人だけどそれでもいいよ。って周りにいってもらおう。今回は、迷いながら歩いてきた不登校、登校拒否当事者に、確かに聴いたよ、あなたの存在を見たよって伝えたい。外側と内側の壁が低くなって、素直な気持が口にしやすくなった。ほんとのことは、ふつうに話したい。




 誰にも愛されなかった、と言う人がいても、偽善者のように「わたしは好きだよ」なんて言えないな。
 わたしも似たようなもんだよ、と並んで歩いていきたい。
 いっぱいいっぱいだから。精一杯のつながり方。大人は弱いなあ。子どもたちの体当たりのつきあいが、うらやましい。相手を求めて求めて。だもんね。毎日布団に潜って忘れたいことばかり。だけど、睡魔に落とされるちょっと前に思う。子どもたちの外に向かうパワーは案外つづくだろうし、それって希望に満ちてる感じがする。なんだか、信じていいみたい。