教育が問われる

 いま、この状況で、わたしたちがどう動くか、何を発言するか、子どもたちはよく見ていて、彼らの一生に深い影響を与えていくと思いました。
 困難なときほど、わたしたち大人が受けてきた教育や、これから子どもに伝えてゆくものが、はっきりと浮き出てて、見えやすくなっているのでしょうね。

 この悲惨な状況に、宮城県や被災地の学校では、教職員が欠席の場合は年休扱いになり、そうでなければ出勤するよう言われたと聞きました。
 食物を手に入れるため店頭に3時間並ぶ、ガソリンが無くて2時間歩いて出勤する、その、状況であるのに。休みたくて休んではいないのに。食べずに、歩いて、何も見ずに、疑問をもたずに職場へ来い、なんて。普段から、状況に応じた態度を身につける、自分で考えて行動する力、云々、あれだけ子どもたちに言う大人が。矛盾していませんか。


 助け合う大人たちの姿に、子どもは安心するし、きっと何かを学ぶと思うの。こんな判断では、教育不信になる。大人不信を育ててしまう。
 子どもたちはどのような環境でも、その成長を貫く力を持っている。よろこびや笑いを持っている。生きる方へ、いのちが有りつづける方へ、疑わずに歩く。大人と同じ感覚と判断してはいけないのかもしれません。だから、もっと、自分たちのことを大切にしなくちゃ。その姿を見せていかなくちゃ。利己的とは違う、奉仕する相手は、いま、「自分」なんだ・・・。
 
 繰り返す報道でトラウマになり、薄いストレスが続く。一方、映像で疑似体験し、シャットダウンして忘れ、慢性的に鈍くなる・・・。
 日常に大きな変化がない地域でも、不安という空気に包まれて、大声で笑うことができない。明るく振る舞ってはいけないとか、自由にしては申し訳ないとか、そんなふうになるのもおかしい。泣崩れるのも、当事者じゃないのにしらじらしい、どうしたらいいのか、心の持ちようが混乱してる・・・。

 助ける手がたくさんあること、すぐに救済が届くこと。そうであったら少しでも心を癒せるのに。そんな風に変えていきたい。どうしたら、動けるのか、もっと考えたい。
 何も被害を受けなかったわたしが語るのは、とてもおこがましいし、傲慢なんだけど。できることを、します。小さくても、できることを。どうにもならない時に、いま、人と人が信じ合える行動が、未来の大人たちへ希望をつなげると思う。